昭和45年2月21日 夜



信心しておれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いと言うような、御理解でございましたね。今日、佐世保の前田さんがお参りになりました。ほとんど毎月月参りをしてくるおじいさんとおばあさんがあるんです。もうここへ来ても御祈念はあまりなさらん、もうここの親先生さえ見れば、もうわざわざ佐世保まで来て佐世保帰られる、そいで御陰を受けるてこう言うわけですね。
「私は、金光様のことはよく分らんし、拝むことも、その祝詞、知らんちゃけん」けれども只こちらへ来て、親先生の顔を見リゃもうそいで安心するというわけなんですね。
それだけ、そこに私と前田さん、それから私といわば金光大神と天地の親神様というようにそのおつながりがある証拠に、そいだけ御陰を受けておられるということですよね。
今日あの、先生お礼に出てきました、ちてから言われる、「どう言うことだったですか?」「ああなたもう、こん.昨日.一昨日、もう婆が死んでしまうかと思いました、」そいがその、タドンを起こしたそのタドンのガス中毒だったらしいですよね、そいが夜中のことですし、その倒れて意識がなくなって、そのおったちゅうわけですね。だからあの、あのままだったらまあ死んどったでしょうけど、そん時ですね、誰か分らんばってん、その一生懸命耳元で起こしたちゅう、そいけんやっぱあれが神様ちゅうとでしょう。ちい
起きたら、したらその、お婆しゃま倒れておられたちゅとこです。
それからすぐ医者を呼べやら何やら、まあ手当てが早かったから、御陰でまあ命拾いしたというてお礼参りに見えた訳ですけれどもね。
本当にあのう、まあいうならば、目に見える御陰でしょうね、けれどもそういう例えば働きをくださるその今度は、裏側というのは、まあどんなに大きいか広いか分らない。
私共が日々、え..え.平穏無事御陰を頂いておるということなんか、そりゃもっともっと大きな御陰、例えていうならば、あ..ね..え.泥棒が..あ.入ったけれども御陰でなにもその取られずにすんだと、泥棒が入ろうとして少しばかり戸を開け掛けておった、はあもう本当に御陰頂いた。ということなんですけれどもね。
それよりも、泥棒は迷うておったばっかり、というほうがまあだ御陰だというわけ。そこを私共御陰と御陰とわからんのですよね。
佐田さんのここへ出て見えた、え..今朝から車の買い替えのことのお願がしてあった。
そしたら今日、その電話がお店の方から掛かってきてから、「一寸、あのう事故起こしたからすぐ来てくれ」というね、もう行かれたらまあ接触事故で両方の、これが一寸( ?)さされとった、と言うわけなんですね、あなたそいでも五万、十万は掛かるでしょうね、今頃のことですから..ね.けれどもそれが大変その御陰の中にあった。
あるなあということ感じられるんですから、もう本当に先様が立ち行かれるようなという、思いでその話されるから、向こうも大変喜ばれるし、こっちも御陰頂いたということは、今朝、車の買い替えをお願いさせて頂いて、いうならきっかけが出来たわけですね。
やはりお店のことですから、そのやは.皆のやはりあれ行かなきゃいけんのですけれど、まあきっかけが出来たいう意味あいにおいても、御陰を頂いたというね、それを本当に御陰とこう頂き切っておられるわけですね。
まあやっぱそれでも、五万、十万はかかるでしょうね、ワゴンの事ですから。ね、けれどもそれがもう大変そのおかげの中にあったん、あるなーという事が感じられですから、もう本当に先様が立ち行かれるようなという思いで、その話をされるから、むこうも大変喜ばれるし、こっちもおかげを頂いたという事は、今朝車の開会を願いさせて頂いて、言うならきっかけが出来た訳ですね、やはりお店の事ですから、そのみんなのしょ、やはりあれが行かなきゃいけんのですけれど、まあきっかけが出来たと言うなようにおいても、おかげを頂いたと言うように、それを本当にこのおかげとこう頂ききっておられる訳ですね。(その自身も?)今日は、昼こちらへ出て見えられる時に、もっと(じま?)のようなとこで自動車に接触してもう危ない事で自動車の方が、あの、低場からおてこもうとしたって、そりゃそうでしょう(行きは手前として?)ばーとこういうハンドルきったかなんかでしょうね。自分もその、おーとやっぱ、自転車のおきんも手をこうやってなんかつられた様な、まあ本当にビックリするような事だったとこう言われるですけれども、本当に広大なおかげを頂いてと言うけれども、その広大のおかげを頂いてと言うよりかもっともっと、にち、お互い広大なおかげを受けておると言う事です。だから、神様がそういう、例えば素晴らしい演出と言うかね、佐田さんの事といい( ? )さん自身といい、またはその(ムサシ山の  ?)さんといい、そう言うおかげを下さる事が出来る神様なのですから、私どもが目に見えないおかげをおかげと日々感じて、信奉ほうしゃの生活をさせていただくところに、いわいる平温無事と言ったようなおかげが約束されるのじゃなかろうかと。やっぱり、お礼不足、お礼不足とこう言われますけれど、確かにめいめい(なり?)おかげの所に気付かないで、お礼不足になっておるような事が沢山あろうと思いますですね。どうぞ。